「かわいそう…」里に暮らし、里で生きる同じ命として感じた想い 〜第55回「わたしの保育記録」佳作~

特集
小学館が後援する保育記録の公募「わたしの保育記録」

第55回「わたしの保育記録」応募作品の中から、佳作を受賞した作品をご紹介します。

(一般部門)
「かわいそう…」里に暮らし、里で生きる同じ命として感じた想い
弓削保育所(京都・京都市)  中村 早希

はじめに

弓削保育所は、京都市右京区にあり、平成17年に京都市と京北町が合併し14年を迎えた。京都市でありながら、茅葺屋根の家屋があり、保育所から一歩外に出ると、川遊びや山の散策など、京北域ならではの自然の中での遊びが満喫できる。反面、京北域全体に超少子高齢化・過疎化が深刻な課題で、幼児在籍児童は14名で異年齢保育を展開している。

暮らしの中では、蛇・猿・鹿・熊等の野生動物の存在も身近に感じられる。野生の生物がすむ環境に私達も暮らしていることを、日々の保育の中で伝えてきた。これは偶然の出会いに子ども達の心の揺らぎと成長を、そして自身の気付きを感じた保育の記録である。

昨年春 皆のすむ場所だから

川で遊んでいた時、缶や袋のゴミが落ちていた。それに気付いた5歳児が「ゴミみつけた」と拾った。保育士は持っていたゴミ袋を子どもに渡すと、その様子を見ていた他の子が「何で拾うの?」と聞いてきた。私が「川にはだれがすんでいる?」と子ども達に問いかけると「魚」「カエル」「蛍」と元気よく答えた。「そうやな、皆が遊んでいる川も誰かの家や、鹿が水を飲みに来るところやな。そこに、ゴミを捨てられたらどう?」。子ども達は「いやや~」と嫌そうに口を揃えた。

昨年度の5歳児のゴミ拾いが発端となり、散歩に出ると、ゴミを見つけて拾うことが自然と子ども達の習慣になっていった。

昨年冬 鹿の檻をみぃつけた!

いつも遊ぶ沢までの通り道。今まで無かった大きな檻が森の中に置かれていた。1m×1m×2mの子どもならスッと入れる程の檻。里に住む大人は当然に知っている。子ども達にとっても鹿は、道で遭遇したり糞が落ちていたり、食用の肉として時には食卓に並ぶ存在である。

ごっこ遊びをすれば、鹿役が出てきて「きょん」と鳴き、倒れているかと思えば「車にひかれて怪我してんねん、鹿の母さん」と子ども達なりに暮らしの中での在り様をよく見ていると感心してしまう。その鹿を捕える檻が目の前にあった。

私自身、里での保育は四季折々の自然現象や生物との出会いに感動することが多いが、保育の中で鹿の檻を見つけたのは初めてであった。しかも、よく遊ぶ沢のすぐ側。直感的に保育士として子ども達に感じて欲しい事の内容がぎゅっと詰まった出会いだと感じた。まず、子ども達に「これ何やと思う?」。5歳児はよく知っている。「鹿とか猪とか捕まえるやつ?」。

保育士は「そうそう、これは檻って言って入ったら自分で出られないからね。じゃあ畑の夏野菜食べたのは誰やった?」。子どもは身を乗り出して「鹿!猿!」と答えた。

「皆が一生懸命育てた野菜が食べられないように、檻を置いてんねんな」というと、子ども達の表情からも納得している様子が伺えた。

「もし、可愛い子鹿が入っていたらどう思う?」。

子どもは「可哀想」「お母さんに会いたいと思う」と子鹿に思いを寄せ、口々に話し出す。
「え、でもその鹿皆の野菜食べてしまうんやで」と重ねると、「え~?」と眉を顰め、悩む子ども達。今無理に答えを出す必要は無いと思い「難しいなぁ」と言葉を残し、その場を去ることにした。

その後も、散歩中のゴミ拾いは3・4歳児に引き継がれ、進級した後も続けられていた。

春 先生来て!馬がおる!

 春、昨年の2歳児が3歳児として加わり、いつもの沢へ探索に出掛けた。「先生、来て!馬がおる!」と驚いた声と、何かを発見した子どもの息を荒げた様子に可愛らしさと“馬はおらんやろ~”と心の中でツッコミながら近づくと、檻の中に鹿が捕まっている。“また、凄い場面に遭遇したな”と私自身も驚きで一杯だった。他の子ども達もその様子に気が付き集まってきて「えー鹿やぁ」「怖い」と驚きと恐怖を感じつつも興味津々で見ていた。鹿は檻の中でガタンガタンと鼻をぶつけ檻から出ようとしている。まず感じたのは鹿独特の獣の匂い。鹿が暴れる度に感じる匂いに子ども達も「なんか匂う」「臭い」と鼻を摘まんでいた。以前も散歩中に鹿に遭遇した事はあったが近距離で見て、匂いを感じる経験は初めてだった。昨年、鹿の檻を見つけた時にした質問を子ども達に投げかけた。「何で捕まえるの」「捕まえてどうすると思う?」。

昨年は4歳児として5歳児の姿を後ろから見ていた今年度の5歳児がその時の話を思い起こしながら「畑の野菜食べてしまうから」「殺されたり、人に食べられたりする」と興奮しながら話した。たどたどしくも一生懸命思い返した事を話す姿に、異年齢の暮らしの中で学びが伝承されていく事、そして、子ども達自身の成長をしみじみと感じた。前回は、子鹿をイメージして話をしたが、目の前の鹿は大人の雌鹿。私は子ども達に「母さん鹿かなぁ」と投げ掛けると、今度は鹿に心を寄せた思いが、子ども達から次々と出て来た。「家で子鹿が待ってるんちゃう?」「お買い物の途中で迷子になったんかな」「畑の野菜食べに行く所かな」。

更に、鹿の体の様子に気が付く子どもも出てきた。

「後ろの足が震えてる」「怪我してるんちゃう」「鼻の所、血が出てる」。

発見を共有していくうちに、3歳児の女の子も、ぽそっと「可哀想…」と呟いた。鹿の姿を皆神妙な面持ちで見つめていた。やがて、「助けてあげたい」という子どもも出て来た。保育士も心苦しい思いを感じながら「これは猟師さんが仕掛けた罠だから先生は開けることは出来ない」と言葉を返す。すると、5歳児から「もしかしたら、鹿の家族が心配して探しにきて助けるかもれんな、お父ちゃんとか」と前向きに捉えようとする姿があった。大人は、絞めて捌く現実を知っているだけに、空想の世界を楽しむ純粋な優しい言葉に心が和らいだのを覚えている。クラス全体が少し悲しい思いを胸に持ちながら、保育所へ帰った。

その日の夕方の集いで、鹿の話の振り返りをした。振り返りの話をどう進めていけば良いのか、大切な事をどうやったら子どもに伝えられるのか、私は昼に頭を抱えた。というのも、子どもたちにとって鹿は愛でる対象としての動物ではなく、暮らしの中にいる身近な存在であるからだ。その鹿が山の新芽を食べてしまえば森は育たず、田畑を荒らせば人は暮らすことが出来ない。増え過ぎた鹿は、獣害として扱われる。しかし、子どもの純粋な、鹿の立場に立った気持ちや暮らしを想像する部分も大切にしたい。しばらく悩み、他の保育士にも相談した後、再度子どもと一緒に、鹿と人のそれぞれの理由を考える時間を持つことにした。

まずは鹿を見てどう思ったかを問いかけた。「匂いがした」「可哀想と思った」「今頃仲間が助けにきたかも」。子ども達の実体験からの感想はどれも率直だった。ひと通り思いを聞き、山と家と畑の絵を描いて見せた。「鹿は山で、私達は里で暮らしているね。皆自分の家でご飯を食べればいいのに何で畑に来るん?」と聞くと、子ども達は「畑の野菜が美味しいから」、そして「山に鹿の好きな葉っぱないんかな」と5歳児から言葉がでた。子どもなりに良い所に気が付いていると私は驚いた。「鹿が増えて山に葉っぱが足りなくなって、畑までご飯を探しに来てるんやな」「じゃあ、畑のご飯食べられてもいい?」、「うーん」と葛藤する子ども達。鹿と人の思いを出し合い、この時は話を終えた。

保育を進めてきて…

鹿の生きる為の理由・人の生きる為の理由をそれぞれ考えたのは、良い・悪い、正解・不正解で答えを出すのではなく、それぞれの思いを想像する過程に保育の意味があると考えているからだ。私が鹿との振り返りで迷ったのは、知識としての情報と心での経験とのどこに重きを置いて進めていこうかとの葛藤だった。情報を教えるのは簡単である。話し合い、一つの答えを出すことも大切である。しかし、もっと奥深く、心の土壌として、同じ体験を通して、感情を心の底からじんわりと感じ、感じたことを共有することが、他者と生きる喜びの第一歩であると考えて答えを出さないことにした。子ども達は暮らしの中で小さな虫から森や川に住む生き物に触れ、友だちと思いを共有している。これら経験を通して、子ども達は里という社会で暮らす一員であり、自分以外にも様々な存在があり、思いがあるということを感じている。保育を振り返り、子どもの姿や言葉の中に、他者への理解や思いやりが年齢に関わらず育ち合い、学びと共に広がっている事に気が付いた。この記録はまだ過程にある。過去の経験、鹿との出会いが今後どのように子ども達の心の中に残り、深まりを見せるかが私は楽しみであり、ひとつの出来事がひとつの成長に直結するものではないので、里での経験を積み重ねていくことが、温かな人間性に繋がっていくことと期待している。

自然豊かな里での暮らしは、子ども達の五感をくすぐり、失敗しても試行錯誤し何度も挑戦することが豊富にできる場所である。一方で自然の恐ろしさにも出会う。台風では甚大な被害を受け避難生活を余儀なく経験した子どももいる。子どもを取り巻く生活は便利に、また簡単にすむようになっているが、命に触れる経験や人の気持ちを考える機会が減り、人間関係を築くことの難しさが社会の課題であると私は考える。あえて手間をかけることをし、子ども達が自分自身の心を感じ、物事の本質に出会える機会を大事に、保育を進めていきたい。そして、個性や意見の多様性を受け止め、自分も周りも大切に思える子どもに育つよう実体験を積み重ねることを今後も大切にしていく保育を目指していきたい。

受賞のことば

弓削保育所(京都・京都市)  中村 早希

里で遊ぶ中には、日々驚きと自然の美しさ・心地よさを感じています。子どもたちも沢ガニ等の小さな命から苔や木々に触れ、その不思議さと面白さに目をキラキラさせています。その興味から小さな命を何度も失わせてしまう経験もしてきました。

その経験があり、自分の感じてきた世界の精一杯を駆使して他の命へ思いを寄せる力になってきました。時には、次々出る子どもの発想に保育士が付いていけなくなる程の躍動感にわくわくしながらの保育。何を子どもたちに伝えたいか、保育の進め方に悩むこともありましたが“感じること”“悩むこと”“共感すること”、その過程にこそ意味があるものとして私も私の感じる精一杯の想いで保育を進めてきたように思います。

自然の恵みに溢れ、人との繋がりの温かな京北という地域。子ども達が育った里を、側にあった自然を、そして側にいた友だちと自分の思いを“大切だなぁ”とじんわり心の深くに感じる保育を今後も展開していきたいと思います。この度は名誉ある賞に選んで頂き、ありがとうございました。

講評

東京家政大学教授 加藤 繁美

鹿や猿や猪との「自然」な出会いが、普通に存在する保育園生活の中で、罠にかかった鹿をめぐって5歳児たちが考えた、野生動物と人間との「共生」をめぐる葛藤の物語が綴られた興味深い記録です。

散歩の途中、檻の中に捕らえられた鹿の姿に遭遇し、「後ろの足が震えてる」「鼻の所、血が出てる」と考える子どもたちの言葉には共感させられますが、保育者の質問に誘導される形で、情緒的でステレオタイプな話し合いに導かれていった点が残念です。結論を一つにまとめる必要はありませんが、事実に基づいて子ども自身が考え、意味をつくりだす姿に耳を傾ける話し合いができると、もう少し奥深い実践になっていったように思えます。

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