「50円玉をどうするか」 第59回「わたしの保育記録」佳作
第59回「わたしの保育記録」応募作品の中から、佳作を受賞した作品をご紹介します。
(表記は基本的に応募作品のままです)
【一般部門】
「50円玉をどうするか」
阿部仁美
社会福祉法人東香会 上町しぜんの国保育園 (東京・世田谷区)
上町しぜんの国保育園では0歳児から5歳児までの異年齢保育をしている。これはなっちゃんちという1つのユニットでの話である。
なっちゃんちのあさひという5歳児が公園の砂場から50円玉を見つけた。そこで夕方、一緒に出かけた人たちでこの50円玉について相談をした。「この50円玉どうするか」と聞いてみた。すると誰かが「おいしいものかう」と言いだしたことをきっかけに話が始まり、何が欲しいかという話になった。
しかしそこで同じく5歳児のすみれが口を開いた。
すみれ「でもとどけたほうがいいよ」
あべ(筆者)「なんで届けたほうがいいと思うの?」
すみれ「だってさ、これはだれかのかもしれないから」
するとじゅりが「ちょっとまって」と口を挟む。
じゅりというのはすみれと同じ5歳児だ。
じゅりはおもむろに50円玉の匂いを嗅ぐ。
じゅり「なんかさ、においしないからだれかのじゃないよ」
すると誰かが「じゃあさ、これはおばけのなんじゃない?」と言い、これがおばけのかどうかという話題へと移っていき、おばけのだったら取り返しにくるのではないかと話が膨らんだ。
じゅり「じゃあさ、よるさこのおかねおいておいて、とりかえしにくるかみたらいい」
あべ「このおかねが本当におばけのかどうか調べるってこと?」
じゅり「そう」
あべ「じゃあ明日と次の日お休みだから、その間保育園に置いておいて、お化けが取りに来るか調べてみようってことね?」
「うん」
そこで50円玉を食品保存用袋に入れて梁に引っ掛けて、週明けを待つことにした。
さあ、月曜日。50円玉はそのままだった。
ここから2回目の相談。「50円玉はなくなってなかった」ということは、これはおばけのではない、公園に来ているお姉さんのかもしれない、おばけは通り抜けちゃうから取れなかったなどさまざまな推測が出た。今回は前回よりも「とどけよう」と言う人が多かった。おばけのじゃないということは誰かのだと思ったのだろうか。
そこで、おやつを食べ終わった後、じゅり、あさひ、みおりに加えて4歳児のみのりと共に交番へと向かった。その道すがら50円玉を拾ったあさひが「あさひじつはさ、このおかねためてなんかいいものかったらいいんじゃないかなっておもうんだよね」と呟いた。「たしかに」と私も同意した。
そんな白と黒ともなりきらない感情を抱えながら交番に行くと、なんとお巡りさんは留守。
「これはもう50円玉かいぎだ!」と言いながら帰る。
あべ「あっくんさっきなんか話してたよね」
あさひ「あさひはさ、おかねをためてなんかかったらいいんじゃないかなっておもうんだ」
じゅり「わたしはおもちゃ」
りく「おかし!」
きいち「ぼくも」
りくときいちというのは3歳児だ。
みおり「きょうはさ、おやつのあとにいったからおまわりさんいなかったじゃん」
あべ「うん」
みおり「あさいったらいいんじゃない?」
あべ「みおりは朝もう一回届けたらいいと思うってこと?」
みおり「うん、そう」
じゅり「あ、いいこと思いついた!じゃあさよるいけばいいじゃん」
あべ「夜?どうして?」
じゅり「そしたらおばけがいるから」
あべ「でも夜だと子どもも大人もみんな帰っちゃうけどそれはどうする?」
じゅり「うーん」
あさひ「あさひはさ、なっちゃんちでおとまりかいしたらいいんじゃないかなっておもうんだ」
あべ「おとまりかいね、うーん」
あべ「いま出てるのは、お金を貯める、お金を使う、朝もう一度届けに行く、夜もう一度届けに行く、これね。じゃあこのなかでひとつ決めて」
お金を貯める→あさひ
お金を使う→じゅり、みのり、りく、きいち
朝もう一度届けに行く→みおり
夜もう一度届けに行く→なし
これをどうやって決める?と話題は移る。じゅりが多数決を持ち出すが、みおりは絶対に変えたくないと言う。今度はじゅりがじゃんけんを提案するが、誰がじゃんけんするかで話は決裂。これ以上は私の力量的にも話が巡ってしまいそう。そう思い、「お金を貯めて使う」と「朝もう一回届けに行く」と書いた紙を裏返して、この話をしていない人に引いてもらうのはどう?と提案した。「まあ、それならいいかもね」と賛同を得てくじ引きにすることにした。
くじを引くのは話をしていたちゃぶ台のすぐそばで座っていた1歳児のりょうま。
紙を裏返してりょうまに「どうちがいい?」と聞く。
「こっち」とりょうまが選んだのは、「朝もう一回届けに行く」という紙。
すると子どもたちからは「あぁー」「やったー」「りょうまぁー」と様々な声が漏れた。
さていざ交番リベンジだ。私たちは出かけた。しかしなんとお巡りさんは今日も不在だった。「うわー」「えー?またぁ?」と落胆の声。「もうこんなに暑いなか歩いたのにっ!」不満の声。「これはもういっかいかいぎだなー」とあさひが言う。
そして4回目の話し合い。
じゅり、みおり、すみれ、あさひ、みのり、りくと隣の部屋の4歳児のゆうわ。早速あさひから提案があった。
あさひ「なんかさ、ちがうところいったらいいんじゃないかとおもうんだけど」
あべ「ちがうこうばんってこと?」
あさひ「うんそう」
じゅり「わたしはさ、おまわりさんがいるかいっかい、いってから、いたらもういっかいいけばいいとおもう」
あべ「あーじゅりは、お巡りさんがいるかどうか一回調べようってこと?」
じゅり「うん」
りく「じゃあでんわしたらいいんじゃない?」
あべ「あー、電話して聞いてからいったらいいってこと?」
りく「うん」
ゆうわ「えー、ぼくはもうつかっちゃいたい」
あべ「ゆうわは使っちゃいたいと思うのね」
あべ「ほかにある?」
みおり「ほいくえんにおいておいたらいいんじゃない?」
あべ「このままにしておくってこと?」
みおり「うん、そう」
あさひ「あさひのいえのちかくのこうばんはさ、いつもいるよ」
じゅり「わたしのいえのとなりのこうばんもそうだよ」
あべ「なるほどね、お巡りさんがいる別のところいってみるってことね」
あべ「ほかにある?」
子ども「うーん…」
あべ「じゃあさ、このなかでひとつえらんでみようか」
お巡りさんがいるか調べる→じゅり、すみれ
電話する→なし
使っちゃう→ゆうわ
他の交番にいく→りく、みおり、みのり、あさひ
保育園に置いておく→なし
あべ「さあ、これをどうやって一つにするか」
じゅり「おおいひとのやつにするのがいいんじゃない」
あべ「でもそうしたら、1番多いのはほかのこうばんのやつだから、じゅりとすみれは諦めてねってなるけどそれでもいいってこと?」
じゅり「ぁ……それはやだ」
すみれ「すみも」
あべ「ゆうわは?」
ゆうわ「えー」
こんな風に話していると、りょうまがやってくる。
前回自分がこの話題に入ったことを覚えている顔つきと足取り。
“ぼくでしょ”というように寄ってきてちゃぶ台を囲んで座る。
じゅり「おっ!りょうまきた!」
みおり「りょうまがえらんで!」
あべ「よし、りょうまどれがいい!」
りょうま「これっ」
「「「………」」」
あべ「りょうまがえらんだのは…“ほかのこうばんにいく”です」
「やったー!またわたしのだ!」というみおりの声の横でじゅりの顔が少しだけ歪む。
あべ「じゅり、くやしいな」
じゅり 小さく頷く
あべ「そうよね」
じゅり「む…」
そしておやつの後。何度目かのいざ出発。
帰りはじゅりとりくのおうちの玄関先でお茶を飲ませてもらおうか、なんて言いながら松丘交番の向かいの交差点にくる。
「こうばん、あったー!」
「いるかな!」
という声のなかでじゅりが言う。
じゅり「まって、なんかあかいのかいてある」
あべ「え!?」
みんな「え、もしかして…」
みのり「いやー!もうさんかいもきたのに!」
みおり「なんでー」
あさひ「ねえ、なんか(カウンターに)おいてある」
交番の扉の前には、
「パトロール中」の大きな赤い文字。
カウンターの上には見覚えのある「不在」の看板。
あぁ…
もうさんかいもきたのに…
こんなにお巡りさんに恵まれないことがあるのか?!私たちは冷房が効いた誰もいない交番のなかで崩れ落ちた。
実はこの話には続きがあるのだが、今回はここまでにする。
さて、今回、私が印象的だったことをあえて2つに絞るとしたら、まず、大きい子一人ひとりの表情である。何かいい案を閃いた時のあさひの顔や、暑いなか行ったのに不在だった時のみのりの文句の声など、日常、ユニットのなかで大きい子と出会っているとあまりみない距離で大きい子の顔や声に触れられた。たとえば自分のが選ばれなかった時のじゅりに悔しい?と尋ねた時、じゅりはちょっとだけ泣きそうだった。「なんでよ!」とか「りょうまのばか!」とかじゃなくて、グッと堪えるじゅり。普段のケンカとちがって、話し合って決まったということだからなのか。散歩に出る直前、園庭のドアの前で名前を呼んでいる時に、じゅりは小さい声で「くやしかったなー」と呟いた。あー、本当に悔しかったんだなと感じ、それだけ真剣にこのことに向き合っていたのだとこの瞬間に私は知った。
次に、やはりなによりもみんなで話すことの面白さである。きっかけはたまたまお金を拾ったことだった。すぐに交番に…というのは面白味に欠けるなーと思い、これをきっかけに子どもたちと寄り道を楽しんでみた。続けようという思いはなく、お巡りさんの不在によって続いてしまった。でも毎回、やってみては「あちゃー」ってなり、帰ってきて、みんなで案を出す。最初の「おばけのかもしれない」から始まり、私の思ってもみない方向へと進んでいくのが面白くて、ちゃぶ台を囲んで「どうする?」と話をするのは未知なるものに出会うワクワクがあった。話し始めた当初は着地点をどこかと探していたけれど、結局どこに着地したのかはわからないし、着地なんてしていないのかもしれない。しかし、あちこちと子どもたちに誘ってもらったように思う。行先の見えない寄り道散歩、本当に面白かった。
受賞のことば
阿部仁美
このたびはこのような賞をいただきありがとうございます。
このエピソードは、たまたま拾った50円玉から出発しました。「拾ったら交番に届ける」というのは大人の世界では常識とされています。しかし本当にその一本道しかないのだろうかとこのときの私は感じました。大人の当たり前を取り払い、子どもたちとともに一喜一憂しながら歩んだことが、結果として50円玉をめぐる「旅」へとつながったのだと思います。
私ひとりでは思いもよらない方向に話が進み、おまわりさんの不在のほかにもエピソードには書ききれないくらいの困ったことにぶつかりながらも、行き先もわからないその未知性を存分に楽しみました。これからもさまざまなことに心を動かされる保育者でありたいです。
講評
審査員
加藤繁美(山梨大学名誉教授)
どんな小さなことも、子ども同士で話し合う、そんな空気を持った仲間関係がステキだと思います。拾った50円玉で「おいしいもの買う」と言った言葉を皮切りに、「届けた方がいい」、「匂いがしないから誰かのじゃない」「じゃあさ、これはおばけのなんじゃない」と、およそ世間の「常識」とは異なる世界で話を進めるところがいいですね。何といっても世の中の「常識」に染まりながら大きくなるのが子どもではなく、新しい「常識」をつくりながら生きていくのが、子どもたちなのですから。
そしてそういう意味で、常に「結論」を「保留」しながら話を進めていく、そんな保育者のかかわり方の中に、この実践のカギが潜んでいるのかもしれませんね。たくさんの推理と試行錯誤をくり返しながら子どもたちは、「そうか、僕たちが考えていたことはこういうことだったんだ」と互いにわかり合っていく、そんな対話する人間集団をつくりだしていくのだと思います。
もっとも、せっかくここまできたのだったら、「交番に行った50円玉は、その後、いったいどこへいくのか」「落とした誰かがわからないと、50円玉は誰が使うのか」「交番に届けなくても、落とし主を見つける方法はあるかも」と、子どもたちの世界をおもしろく広げたくなるのも事実です。
おそらく実際には、そんな何かがこのあとあったのだろうと思います。記録には登場してきませんが、そうやって問いを求めて活動する子どもたちの姿に、仲間に育っていくことの意味を発見させられる実践の記録です。
写真提供/上町しぜんの国保育園
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