『待って見守って 〜Tちゃんの思いに寄り添って〜』第60回「わたしの保育記録」佳作

第60回「わたしの保育記録」応募作品の中から、佳作を受賞した作品をご紹介します。
(表記は基本的に応募作品のままです。)

〈0・1・2歳児クラス部門〉
待って見守って 〜Tちゃんの思いに寄り添って〜
野桐有貴乃
学校法人七松学園武庫まつのみ保育園(兵庫・尼崎市)
目次
はじめに
今年度、三年間従事した小規模保育園から同一法人内のこの小規模保育園に異動した。新入園児はともかく進級する子どもたちとスムーズに関係作りができるかという心配はあるものの、法人研修等で共に学んだ保育士たちと保育することに期待を持っていた。
四月はじめの数日間を欠席していた2歳の進級児Tちゃん。他の保育士から「Tちゃんは人見知りが激しいよ」と聞いていたが、私はそれ程気にしていなかった。なぜなら、今までも人見知りの子どもはいたが慣れるのにさほど時間がかからなかったので、きっと大丈夫だろうと考えていたからだ。しかし、Tちゃんとはそうはいかなかった。
Tちゃんとの出会い
欠席から明けて登園してきた日、案の定私の顔を見て大泣きし、慣れている保育士に助けを求めて駆け寄っていく。「やっぱり泣かれてしまった」私はそう思いながら大泣きするTちゃんに「おはよう」「Tちゃん」と声を掛けた。次の日もその次の日もなかなかTちゃんと上手くコミュニケーションをとることができなかった。
Tちゃんの視線
室内遊びの時間、私が他児と遊んでいると視線を感じる。ふと目をやるとその先では、少し離れた場所で、他の保育士の膝に座っているTちゃんがこちらを見ていた。ぱっと目が合い、私がニコッと微笑んだその瞬間、Tちゃんはすぐに泣いて膝に座っていた保育士に抱っこを求めてしがみついてしまった。そんなことが一度ではなく何度かあった。私がTちゃんの視線に気づくまでこちらを見ていたのか?と考えると、Tちゃんにとって私はきっと気になる存在ではあるが決して近づきたくはないのだと思った。遠くから見て様子をうかがっていたのだろう。
Tちゃんの思い
それから私は、一日一言はTちゃんと話をしようと、まず朝に挨拶をすることから始めてみた。近くに行って「おはよう」と声をかけたり離れたところから名前を呼んでみたりしたが、やはり私を見ると泣き出すので、朝はまだTちゃん自身も調子が出ておらずそのような時に無理に声を掛けても逆効果だと思い、関わらず安心できる保育士の近くで過ごす姿を見守っておくことにした。
近づくタイミング
Tちゃんに近づくことができたのは自由遊びの時間。それも、他の保育士がTちゃんの隣にいる時。安心できる保育士がそばにいてすぐに助けが求められる、という環境の下で近づくことができた。私が他児と花紙で遊んでいる時のこと。保育室の隅の方で座りながら別の友だちが遊んでいる様子を見ているTちゃんにそっと近づき、花紙を見せて「ここを引っ張ってごらん」と声を掛けた。私が片手で花紙の端を持ち、Tちゃんも同じように端を持ち少し力を入れると破れた。私は、「うまくいった」そう思って、もう一度花紙を渡して一緒に破った。少しこわばっていたTちゃんの表情に変化はなく、一緒に破っている間もまだ硬い表情のままだった。少しでも関わって遊べたことに喜んだ私はこのまま遊ぼうかと思ったが、全くリラックスしていないTちゃんを見て今は焦らないでおこうと思い直し、二回程繰り返した後私は「また遊ぼうね」とだけ声を掛けてその場を離れた。私が離れるとTちゃんは隣にいた保育士にニコッと笑顔を見せていて、私と関わっていたわずか一、二分の間の緊張が溶けたように見えた。私はこのように、Tちゃんのそばに安心できる保育士がいる時に少しずつコミュニケーションをとっていくようにして、私が同じ空間にいることに慣れていってくれればと思った。

四月の下旬、ままごと遊びをしている時には、「先生もこれ食べたいな」「どうぞ」などの一言、二言の会話ができるようになってきた。問題なのは排泄や食事、着替えなどの生活の面。遊びの面では少し近づけたかな?と思っても、生活の面では進歩が感じられなかった。私がトイレにいる時は絶対に来ないし、Tちゃんと同じテーブルで食べている子どもの介助をする時は大泣きして食べようとしない。Tちゃんの泣き声が部屋中に響く。その度に他の保育士が来て対応してくださる。「もうしばらくしたら慣れるから気にしなくていいよ」と毎回言ってくださるが、申し訳ない気持ちと何もできない自分に苛立ちがあった。これ程にも人見知りをされて泣き続けられるのは初めてで、正直私も一緒に泣きたい程気持ちが折れそうになっていた。もう一つ困っていることがあった。それは、散歩の時間。私の保育園では、晴れていれば毎日散歩に出かける。その時に保育士と子どもが手を繋いで歩くのだが、もちろんTちゃんは私とは繋ごうとしない。ある日、Tちゃんが散歩の準備(靴下を履いて帽子を被る)に時間がかかり、玄関に出てきたときには既に他の保育士たちは他児と手を繋いでおり、手が空いているのが私だけという日があった。Tちゃんが嫌がることは分かっていたが「一緒に行こう」と言って手を出す。案の定「いや!」と言って泣き始める。「○○見つけに行こう」「○○もあるかな」「○○先生の後ろ歩いてみよう」など、Tちゃんの好きなものを並べて言ってみたがやはり駄目。結局この日は他児に代わってもらって散歩に行ったが、Tちゃんにとっても私にとっても辛い時間になってしまった。このような時間が少しでも減っていきますようにと願った。
心がけていたこと
この時私が意識していたことは、焦って無理に近づこうとしないこと、Tちゃんを観察して近づけるタイミングをうかがうこと。そして私が子どもたちの前で話をする時、子どもに問いかけることがあれば「Tちゃんはどう?」と聞くことだ。全体の輪の中では目立って前に出ようとしたり積極的に自ら発言したりすることが少ないTちゃんだが、あえて名指しをすることで「Tちゃんのことを見ているよ」という気持ちが伝わればと思った。このようなことを心掛けて毎日過ごしているうちに、Tちゃんの泣く時間が少しずつ減っていき、問いかけることに大抵答えてくれるようになった。
五月の下旬には初めて手を繋いで散歩をすることができた。この日の散歩は、私にとって忘れられない一日である。公園からの帰り、見つけた葉っぱをポケットに入れられず困っていたTちゃん。私が「ポケットに入れたいの?」と言ってTちゃんのポケットに葉っぱを入れて、そのまま何も言わずに手を差し出した。するとTちゃんは、拒否することなくすっと私の手を握って歩き出した。何も言わなかったことが良かったのかも知れない。帰り道はTちゃんとたくさん話をして、とても楽しい時間になった。
おわりに
子どもの気持ちに寄り添うことや信頼関係を作っていくことに難しさを感じる。この子と私の関係は今どうなのか、あの時あの子はどういう気持ちだったのか、もう少し早く気づいていれば…と思い返す毎日だ。Tちゃんと出会った時から今までを振り返っていくうちに、子どもとの関わりにはタイミングが重要だということに気づいた。必要な時に必要な関わりができるか、視線を合わせることも大切だが、時にはあえて合わせず何も言わずそばで見守ったり、助けが必要な時を待ったり。そのタイミングが子どもにとって心地いいと感じられたら良いと思う。八月になった今は、Tちゃんと一緒に食事や排泄の時間を過ごし、Tちゃんから「野桐先生!」と笑顔で抱きしめてくれるようになった。信頼関係は簡単にできるものではなく、毎日の積み重ねでできるものなので、これからも子どもの思いを尊重し安心できる環境作りを積極的に行いながら、子どもと心を通わせていきたい。

受賞の言葉
野桐有貴乃

このたびは、このような賞をいただき光栄に思います。
毎日保育をしていると、うまくいかないことや泣きたくなることがたくさんあります。しかし、子どもたちの姿や表情を思い出し、明日はどうしよう? こうしてみよう! と振り返りを楽しんでいる私もいます。このような思いが経験できるのも、保育士の特権だと思います。これからも実践と振り返りをくり返しながら、一人ひとりの子どもとのコミュニケーションを大切に丁寧な保育をしていきます。
日々、支えてくださっている同僚や、保護者のみなさまに感謝を申し上げます。そして、保育園の子どもたちに「ありがとう」と伝えたいと思います。
講評
審査員
今井和子(子どもとことば研究会代表)
克明な保育の展開とリズム感のある文章に「そう、そう」と共感しながら読ませていただきました。
人見知りが激しいT児と心の通い合いが生まれるまでの約2か月。野桐保育者は、T児の表情や行動を離れた場所からよく観察し、コミュニケーションが成立するタイミングを待ち続けました。
ことに保育者が意識していた「焦って無理に近づこうとしないこと」には同感でしたが、むしろT児をあまり意識しないで生活する姿勢をとられてもよかったのではないでしょうか。子どもが「この人とかかわりたい」という願いを持ったときこそ、その子自らが、何らかの手立てをつくって(その必要感に迫られて)働きかけてくるからです。そのときこそがグッドタイミングになったのではないでしょうか。
写真提供/武庫まつのみ保育園
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