「保育は個人の魅力が生きる仕事。『わたし』を手放さないで」【プレイバック「わたしの保育記録」過去の受賞者インタビュー】
小学館が後援する保育記録公募「わたしの保育記録」。2010年度大賞受賞者の「青くん」こと青山誠さんに、受賞当時の思い出や、保育の記録を書くにあたって大切にしていることなどを語っていただきました。最終審査で「保育の醍醐味を表現した実践記録のお手本」と評された、青山誠さんの8年前の受賞作品「あかいぼーるをさがしています!」も全文掲載します。
お話
青山 誠
保育者。保育の傍ら、執筆活動を行う。子どもにかかわる人の対話と交流の場「サタデーナイト」を主催。第46回「わたしの保育記録」大賞受賞。それをきっかけに『新 幼児と保育』にて保育エッセイを連載(2013年~2017年)。のちにこれをまとめた単行本『あなたも保育者になれる』(小学館)を2017年に上梓。そのほか共著に、『子どもたちのミーティング~りんごの木の保育実践から』(りんごの木)、『言葉の指導法』(玉川大学出版部)。
聞き手
渡邊暢子
NPO法人「保育パラ・ピアカウンセラー協会」理事。東京都公立保育園37年勤務の後、現職。著書に『おとなに人気のふれあいあそび』(ひとなる書房)、『保育実習まるごとガイド』(小学館/共著)ほか。
目次
保育者以外が読んでもおもしろく
ーーまずは応募のきっかけを教えてください。
当時勤務していた「りんごの木」代表の柴田愛子さんが「こんなのあるよ。副賞30万円って書いてあるよ」と、募集要項を見せてくれたんです。そのころ、自分の子どもの保育料をどうしようかっていうのがあって(笑)。お金がなかったから、「じゃあ書きます!」っていいました。お金目当てです(笑)。ただ書くことはもともと好きでした。
園がある横浜市は都会で、一見すると健康な大人の経済活動しか見えない場所。でも実はそこに子どもがいて、おじいちゃんおばあちゃんがいて、病んでいる人がいて、亡くなっていく人がいる……そういうことを含めて書こうと決めました。
作品を書くに当たっては、保育者以外が読むことを前提に、物語としておもしろいように意識しました。最終選考は著名な先生方が審査するけど、きっと全応募作品を読んでいるはずはない、保育現場に詳しくない人が審査をしたとしても通るように書かないと最終選考に進めない!と思ったんです。
ーーすごいですね (笑)!
ふだんから、お迎えにくるお母さん、お父さんに今日あったことを話すときも、時系列で伝えるのではなくて、物語として手渡す、見えるように話すという指導を受けていたので、慣れていたのかもしれません。
ーー受賞したことで、その後何か変化はありましたか。
まず、子どもの保育料を払うことができました(笑)。
それから、勤務する園の外に出て、いろいろな保育者と話すきっかけをもらえましたね。初対面でも相手は僕がどういう保育をしているのかを知っていて、声をかけてもらえるようになって。知らない人に向かっても保育を語れるようになったかな。それまでは、こういうこといっていいのかな、いったらなんていわれちゃうんだろう?と考えていたけど、「出しちゃったんだからもうしょうがないや」って。もう誰とでも、ぬけぬけと保育のことを語れるっていうか(笑)。
あとは、自分が大学のときに専攻していた文学と保育が、つながったという思いがあります。それまではそのふたつが自分の中で互いに邪魔をしているような感覚があったんだけど、受賞を機に、「保育を書く」という活動を始めて、いくつか本も出しました。
「エピソード記述」 の前に「エピソードトーク」
ーー保育現場では、記録を書くということが少なくなってきています。日々の保育をしながら「わたしの保育記録」で400字詰め10枚もの文章を書くのは容易ではないと思います。
エピソード記述を書く時間を確保するのは難しいかもしれないけど、「エピソードトーク」なら誰でも自然にしていますよね。たとえばお掃除しながら保育者同士で「今日○○ちゃんがあそこの園庭の隅でさ……」とか、おしゃべりします。お迎えのときに、保護者に今日の出来事を話すこともエピソードトークです。
僕が最初に勤めた幼稚園は、夕方職員室に集まって、今日あったことをみんなで大笑いしながら話す園でした。先輩たちの話を聞くうちに、自分も話題を持っていきたくて。それで上手な人のしゃべり口からまねしてみたんです。そうしたら、だんだんその人と同じように子どもが見えるようになっていった。ふつうは逆ですよね。まずは「子どもをよく見なさい」といわれて、「え、見てるんだけどな」と、どこをどう見たらいいのかもわからなかったんだけど、先輩のしゃべり口をまねしているうちに、だんだん先輩と同じ風景が目に入ってくるようになったんです。いいエピソードトークの語り手になるためには、まずは魅力的な語り手を見つけることですね。
次に自分にとってのいい聞き手を探して語ってみる。職場にひとりでもいいから、「へえ! それいいねえ!」って聞いてくれる人がいれば、もっともっとしゃべりたくなりますよね。職場にいなければ家族だって、友達だっていいんです。魅力的に書くことは、魅力的に子どものことを語ることの延長線上にあります。その聞き手の顔を思い浮かべながら、しゃべるように書けば、肩の力も抜けるでしょう。
今、ドキュメンテーションとか見える化、そしてそれと並行してICT化への流れがあるけど、若い人の場合、まずはカメラを持たずに、子どものぐちゃぐちゃした遊びの場に入っていくことが最初のステップだと思うんですよね。まずは子どもに遊んでもらうこと。子どもと一緒にしゃがんで、その子が見ている風景を見つめてみる。同じ風景を見ることで伝わってくる気持ち、「間」とか「呼吸」のような、子どもが言葉以外で表すものを丁寧に感じ取っていく。そういうステップをとばして、いきなり写真を撮ろうとすると失敗します。
素晴らしい「わたし」じゃなくていい
ーー最初に勤めた園では、夕方集まって語り合う時間があったということでしたが、長時間保育や、勤務形態の多様化もあって、保育者同士集まれるのは昼間の短い時間になってしまいますし、本音で語り合うことがむずかしい状況です。
保育者間で意見がぶつかるっていう悩みは僕も聞くことがあります。でもそれは本当に保育の対話になっているでしょうか。人それぞれ価値観はあっていいんだけど、好きとか、嫌いとかじゃなくて、子どもという存在をそこに置いたとき、自分たちはどうふるまうか、どう連携をとればいいのかという話にならないといけない。つまり、子どもの姿を語り合えているかどうか。「本音をもっと言い合いたい」っていうけど、保育者としての本音は実践の中でこそ練られていく。そうでなければ自分のちょっとした価値観の出し合いをしているだけになり、人間関係のいざこざに滑り落ちちゃう。子どもはどこに行ったんだ? 保育はどこに行ったんだ?ってなります。
ーーそういうアドバイスをしてくれる保育者がいない現場が実は多いんだと思います。職場で話し合っているようでも保育には結びついていなくて、時間に追われて……。そういう中でも、「わたしの保育記録」に取り組む意味があるとしたら、どういうことでしょうか。
ふだん「園」を感じながらでしか自分を出せないで窮屈な思いをしている保育者は多いかもしれません。「園としては~」が先に来て、悪い意味での所属感というか。だけど、「書く」という作業には、「わたし」が登場していいんです。「わたしはこう思う」「わたしはこう感じた」って。だって「”わたし”の保育記録」なんですからね。素晴らしい「わたし」じゃなくていい。失敗した「わたし」のことを書いたっていいんです。保育界ではやりのキーワードをタイトルにつけて、結論でもくり返してっていう文章にしちゃったら、「わたし」がどこかに行っちゃいます。立派な保育実践じゃなくていいから、「わたし」が子どもとどう出会ったのか、そのリアルを書かなくちゃ。
この前、ある若い保育者から相談されましてね。「メリハリつけて子どもにはビシッといわないとダメなのかもしれないけど、自分は苦手で……」と。でもね、そんなのは単なる技術だからいつでもできるようになるんです。こわいベテランになんかすぐなれるし、一回その暗黒面に落ちちゃったら戻れなくなるよっていいました(笑)。今のそのまんまで、こんなに子どもが慕って寄ってくるんだから、その個性を絶対大事にしたほうがいいって。保育ってそういう個人の魅力が、すごく生きる仕事だと思うんです。その人が、そのまんまでいい。その人らしさを失わずに保育者として練れていくというか。保育者としての成長は、「わたし」を手放すことではないと僕は思っていて、今年の「わたしの保育記録」で、そういう成長の記録に出会うことができたらうれしいです。
第46回「わたしの保育記録」大賞受賞作品
「あかいぼーるをさがしています!」青山 誠
ボールがない!
3月のある日。最初に”そのこと”に気がついたのは、たかちゃんだった。
「ボールがない!」
「きのうのきのう、公園にころがってたよ。」
と、花ちゃん。どうやら一昨日しまい忘れたようだ。
「だれかが、けっていっちゃったかな。」
「風で、はこばれたのかな?」
なくなったのは、サッカーに使っていた、赤いボール。大人と対戦し、貴重な1点を、勝ちとったボール。思い出と殊勲がつまった、大事なボールだ。
サッカーをよくやる人たちと、あたりを歩いて探す。垣根の下、草むらの中、池の底、橋の下……ない!
「どうしたらいいかねぇ。」
ぼくがぼやくと、子どもたちも、わからない、とのこと。
そうだ、こんなときこそミーティングだ!
ミーティング「どうやってさがす?」
りんごの木の『ミーティング』。車座に椅子を並べてすわり、そのときどきにあったいろんなことを話し合う。この日は4歳児クラス(2番組)、30人ほどで集まった。
「赤いボールがないんだ。」
ぼくが切りだす。
「サッカーやる人で、歩いて探したけど見つからなくて、困ってるんだ。歩いて探す、の他に、いい考えあるかな?」
ハイ! ハイ! いっせいに手があがる。
「けいさつにききにいく。おとし物みつけた人はとどけるから。もうとどいてるかもよ。」
「このへんのおうちをまわって、きく。」
「留守のおうちも多いかもね。」と、保育者。
「じゃ、『ぼーるさがしてます』って紙を、るすの家のまどに、はっておく!」
がくちゃんが目をキラキラさせていう。
「それはまずいよ。」と、かっちゃん。「新聞うけにいれておくのは?」
「『ぼーるさがしてます』って紙を、新聞にいれてもらう。」
だんだんと話が具体的になってくる。しっかり者の、こっちゃんが続く。
「公園でなくなったんだから、公園に紙をはっておけばいいよ。」
けんちゃんは、別の案。
「人のたくさんいるところで『ぼーるさがしてます』っていいながら、その紙をくばる。」
「それいいね!」
みんなも盛りあがってくる。
「たくさん紙がいるならコピーしようよ。」
「りんごまでの地図も、かかなくちゃ。ばしょをしらない人もきっといるから。」
「その紙をみんなのリュックに貼って歩く。」
と、保育者。
「それなら、からだぜんぶに、はる!」と、ゆうきくん。「あたまとか、おなかとか、おしりとか。」
やだぁ、はずかしい、とみんな。「いいよ。おれ、やる!」と、ゆうきくん。
最後に、さくちゃん。
「よくお店に『まいごのこねこ、さがしてます』って、はってあるの。『あかいぼーる、さがしてます』って、はってもらう。」
ミーティングっておもしろい。ともに考え合うことで、誰が何に困っていて、どんな想いでいるかに気づき、ひとりの問題がみんなの問題になっていく。「仲間」になっていく。
正解はない。もちろん大人も用意しない。どうなるかな? とワクワクしながら子どもの隣にいる。子どもたちは実際、思いもよらぬ考えをだし、行動に移す。
自分たちの”次”をつくっていく。その力は子どもたちの中にきちんとある。
さて、ボール探しはどうなるだろう……。
”けいさつ”に行く
できることからやってみることになり、まずは警察にたずねに行く。
どこで? いつ? どんなボール? 矢つぎ早に出される質問に、たかちゃんが丁寧に答えていく。公園で、きのうのきのう、赤くてぶつぶつのあるボールです。
「では、もし届いたら連絡します。」以上。
物々しい警察署をでて、ほっと息をつく。
「なんかドキドキしたよ。」と、ぼく。
「ぜんぜん、へいき。」と、たかちゃん。
ビラとポスターをつくる
2番組がビラとポスターを作っていると、1番組(5歳児)も集まってくる。
「ぼく、字かくの、じょうずだよ!」
「ポスターは、もっとおおきくなくちゃ!」
1番組がリードして、活動が広がっていく。
「みきが、コトバをかんがえてあげる。
あかいぼーるをさがしています。
さっかーにつかいます。
みつけたひとは
りんごのきにとどけてください。
これでどう?」
ボールの絵と、りんごまでの地図を描きこんでコピー。みんなでせっせとボールを赤く塗る。ビラを籠に入れて、ゆうきくんの全身にポスターをペタペタと貼って、準備完了。「人のいっぱいいるところ行こう。それってどこ?」と聞くと「”えき”だよ、”えき”!」
「どんな人に声かけようか。」
「おやこづれがいいよ。」
「やさしそうなおばちゃんとかね。」
がやがやと歩いていく。駅はすぐそこ!
駅前で「あかいぼーるをさがしています!」
駅前広場。いろんな人が行き交っている。親子連れを見つけると、ビラを片手に近づいていく子どもたち。その顔は真剣そのもの。見知らぬ人に声をかける勇気を、えいっと、ふりしぼった、ふだんとは違う表情だ。
ビラを手にした人にはそのままあげるが、困り顔の人にはわたさない。反応のいい人には、大勢の子どもがわっと群がる。
「りんごの木ってどこ?」と聞かれると、
「まっすぐいくと、かいだんがあって……」
と身振り手振りを交えて教えている。
やがてチラシ配りのお兄さんの隣に、横一列に並んだ。せーのっ、で叫ぶ。びっくりするくらいの大声で。
「あかいぼーるを、さがしていまーす!」
ポスター、はらせて!
次の日はポスター貼り。公園には木にくくりつけておき、街をまわる。
「店長に頼んでおくよ!」と、コンビニのおばちゃん。「それは困ったわねぇ。」と、本屋のお姉さん。
「ここでいいかしら?」と、『迷子のインコ探しています』の横に『あかいぼーるを!』のビラを貼ってくれたペットショップの人。ありがとう。
図書館の人はポスターをしまいこんじゃったので、ビラをこっそり入り口に置いてきた。
保育園では「これは、ちがうわよねぇ?」と園にある赤いボールを見せて
くれた。
みんな(図書館以外)あたたかかった。
やってみたけれど……そして!
それから4回寝て待った。ボールはでてこない。あと2回寝たら1番組はもう卒業だ。
「ちょっと聞いていい?」と愛子*さん。
*「りんごの木」代表の柴田愛子さん
「あの赤いボールをどうしても見つけたい?
もう、あきらめたらいい?
新しいの、買えばいいじゃん!
この3つだったら、みんなどう思う?」
子どもたちは圧倒的に「見つけたい!」。
「そうだねぇ」と、ぼく。「でも1番組はもう卒業。貼ってもらったポスター、
ありがとうございましたって、はがしにいこうか。」
どのお店でも、気の毒そうに「あらー、まだみつからないの?」といってくれる。
インコの隣のビラもはがす。インコもまだだ。図書館のビラもこっそり回収。保育園では「もう少し貼ってあげるわよ。」といってくれるが、1番組のかずくんが残念そうに断る。
「ぼくたち、あさって……そつぎょうなので。」
掃除しながら、みんなの「あーあ」という顔が目に浮かぶ。そうだよね、でも立派だよ、やれるだけのことはやったよ……あーあ。
公園では西日の中で小学生たちが遊んでいる。いや、あれは、かずくんじゃないか。
ん? ぼくを呼んでる? 何か手に持って……。
ボール! 赤いボール!
「ど、どうしたの? それって、あ、あの!」
「みつかったの! いま小学生のおねえちゃんたちがもってきてくれたの!」
少し先に小学生の3人連れが。走っていって事情を聞く。
その子たちは公園のポスターを目にしていた。今日、あるマンションの軒下を”たまたま”覗きこむと、奥に何か赤いものが。ひとりの子が「あれって、ポスターの。」といって……。
みんなで、「やったー!」
次の日は卒業式前日。大きい組70人で集合。
「あかいぼーる、みつかったー!」
拍手がわきおこり、やったー!の大合唱。まるで誰かが卒業に合わせて、とっておきの「おめでとう!」を用意してくれたみたい。1番組、最後の日は、子どもたちの歓声と笑い声に包まれた一日になった。
街では、ときに子どもへの視線に厳しさを感じる。子どもが子どもらしくいることに、街はあまり寛容ではない。しかし今回、街の大人たちの、なんとやわらかかったことか!
ボール探しを通して、子どもたちは、街を自分たちの空間に変えていった。自分たちのアイデアを形にしていくことによって。大人たちにやわらかく呼びかけることによって。「あかいぼーるをさがしています!」の大声は、「ここに、こどもがいます!」という、宣言でもあったのだ。
『新 幼児と保育』2018年6/7月号より
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